ミックスボイスの迷宮

表声と裏声を混ぜる、と最初に表現した先人の罪は重い。おかげでこちらは約5年間もの月日を無駄に費やしたのだから。

この記事は、俗にハードミックスボイス、地声寄りのミックスボイス、ベルティングボイスなどと呼ばれる、中〜高音域の発声について著すものである。

いくら練習しても裏声っぽさが抜けない、地声感が出ないという方々に告ぐ。裏声のことは一旦忘れましょう。

はっきり言おう。この発声を習得するにあたって、地声と裏声を混ぜるという考え方は、邪魔でしかない。裏声の練習は、最低限で良いと思う。どこまで音域を下げても、どれだけ響きを豊かにしても、裏声は裏声。ある日突然地声っぽくなったりはしないのだ。

ミックスボイスを出しているとき、感覚的には地声を出している感覚なのか、裏声を出している感覚なのか、というのはよくある質問である。この発声においては断然、地声の感覚だ。つまりこの発声は、地声の延長なのである。

したがって、練習するなら裏声の混ぜ方ではなく、裏返らない地声の出し方というアプローチが正しい。ここからはもう感覚の話になってしまうので、各々で試行錯誤してみてほしい。強いて言うなら、地声を出しながら、裏声の響かせ方に持っていく、といったところか。声帯の閉鎖はしっかりと、息の強さは強すぎない程度に強め、鼻の奥に声を送る感じ。まあこの辺の細かいところは、少し検索すれば、ちゃんとした講師の皆様方の動画が沢山出てくるので、そちらを参照していただきたい。

かく言う私は、そういった動画などのちゃんとしたボイストレーニング的なものは、一切やったことがない。一から全て独学で、歌いながら練習してきた。そのせいで間違いに気づくのが遅くなったのだろうが、ともかく、独学でも私程度になら歌えるようになるのだ。私の実力はまあ、折を見てツイッターにでもカラオケ動画を上げさせていただく。一般的なカラオケ店で使われている音源にも著作権があり、基本的に個人でアップロードしてはならないとは知らなかった。ミュージシャン(を自称する者)として、恥ずかしい限りである。

というわけで、拙いながらギターの弾き語りの動画をば。
実感として、超絶上手いプロシンガーよりも、自分に実力が近い″ちょい上手″程度の人の歌の方が、より現実的でヒントになるように思う。
歌の通り未熟ではあるが、独学でもこの程度までは歌えるようになる、ということを言いたい。
ギターの腕に関しては、まあ、目を瞑っていただきたい。

まとめとしてはこうだ。

  • 『地声と裏声を混ぜる』は忘れよう。
  • 感覚は、地声を出している感覚。
  • 裏返らない地声の出し方を追究しよう。

どれだけ練習しても成長の実感が湧かないというのは、本当に辛いことだ。理想の歌声を求めて、こんな場末のブログに辿り着いた貴方の道しるべとなれたなら、幸いである。

創作活動、最初にして最大の敵

創作活動−小説や絵画、漫画、作詞作曲などの、特に初心者における最大の障害とは何だろうか?

知識や技術?否。今日、ネットで検索するだけで初心者向けの情報くらいならすぐに手に入る。
また技術なんかは、続けていく内に身につくものだ。
才能?これも否だ。少なくともある程度までは、勉強と練習でそれなりのものが作れるようになるはずだ。才能の有無で悩むのはその先の話だと思う。

私が思うに、敵は「羞恥心」である。
物語にしても歌詞にしても、自分で作り出したそれは紛れもなく自分の内面や願望、さらに言ってしまえば性癖なんかを多分に反映したものになるはずだ。
それを改めて文字に起こしたり形にすることで客観視できるようになるわけだから、恥ずかしく感じるのもまあ当然といえば当然なのだが。
もちろん個人差はあって、よく言えば自信がある人、悪く言えば自分に酔ってるタイプの人には縁のない悩みである。

しかしこの問題、気にする人にとっては思いもよらない難題となる。
私が作曲を始めたばかりの頃の話。
当時ハマっていたNIGHTMAREやポルノグラフィティ、悔しくも逝去されたボカロPのwowaka氏らの歌ものの曲に憧れて、拙いながらも数曲のデモを作った。
しかしまあ一向に作詞が進まない。
もちろん技術や経験不足もあった。それは間違いない。
しかしそれ以上に足を引っ張ったのが、「歌詞を書くなんて、カッコつけたイタい人みたいだ」という偏見だった。
自分の言葉を紡ぐという作業が、なにかとても恥ずかしいことのように思えてしまった。
今考えれば随分と失礼な話だ。世の中には作詞している人なんて五万といるというのに。
それでも尚、じっくり時間をかけて四苦八苦しながら歌詞をつけていくと、一曲分仕上がる毎に少しずつ“作詞家”としての自信がついてきて恥ずかしさは感じなくなっていった。

この「羞恥心」の攻略方法はというと、まあ単純なものだ。
即ち、「自分の憧れの人や、どんなに素晴らしいものを作る人でも、最初は今の自分と同じ状況だった」という意識を持つこと。これに尽きる。

なんだそんなことか、ありふれた言葉だとガッカリしたことと思う。
しかし今一度よく考えてみてほしい。
共感する人が多いからこそ、ありふれた言葉になるわけだ。
私の憧れたNIGHTMAREのRUKAさんやポルノグラフィティの新藤晴一氏も、作詞を始めたばかりの若かりし頃は同じ壁にぶつかっていたのかもしれないのだ。

誰でも最初は初心者。継続は力なり。諦めたらそこで試合終了ですよ。
圧倒的な多数派に裏打ちされた言葉たちを、今一度素直に受け止め信じることが、クリエイターへの第一歩となるのだと私は思う。

コーンスネークを飼う

私にとって、ヘビは憧れの存在だった。

物心ついた小学生の頃には、校庭で走り回っている同級生たちを尻目に、隅っこの草むらで虫たちを追いかけ回していた、そんな記憶がある。
当時住んでいたのは、東京都でありながら都会とは言えず、かと言って山なんかがあるわけでもない、なんとも中途半端な町。
アオダイショウやらシマヘビもいるにはいるが、滅多にお目にかかることができない、そんな土地柄もまた憧憬を助長したのだろうと思う。

そんな憧れのヘビが、よもやペットとしての地位を確立していようとは、初めて知ったときには大層驚いた。
言うまでもなく即時購入しようとしたところを、当時の同居人に「ヘビだけはマジでやめろ」と必死の形相で止められることになったのだが、まあそれは別の話。

それから紆余曲折あったが、都内の即売イベントでついに念願の初ヘビ、コーンスネークのゴーストという品種の個体をお迎えすることとなった。
このコーンスネーク、実は私の飼育する初のヘビであり、一緒に購入したフトアゴヒゲトカゲとともに初の爬虫類でもあった。
執筆時で、お迎えからおおよそ二年半。両者とも何事もなく順調に成長している。

それからというもの、イベントやらショップに行くたびに購買意欲に負け続け、徐々に生体たちは増えていった。
一歩踏み入れてハマったが最後、二度とは抜け出せず深みへと引きずり込まれる。
沼という言葉の意味を、身を持って実感したのだった。

さて、肝心のコーンスネークの飼育について。
前述のように爬虫類に関しては二年半という浅い飼育経験ながら、語らせていただこうと思う。
もちろん個体差はあるので、あくまで「うちの子の場合」としておく。

まず特筆すべきは、とにかく性格が穏やかで、それでいて物怖じしない。
我が家では、現時点で六匹のヘビを飼育しているのだが、その中では図抜けて温厚で扱いやすいのだ。
無論、噛まれたことも飛びつかれたこともない。
ベビーの頃は多少逃げ回ることもあったが、今ではシェルターから出していきなり触っても、動じもしない。

そうかと言って餌食いが悪いでもなく、安定している。
むしろ自分の限界もわかっていないようで、食い過ぎて吐き戻してしまったこともあるほどである。

サイズ感もちょうどいい。
大きなヘビを首に巻きたいような人には少し物足りないかもしれないが、大きすぎて持て余すようなことはまずないだろうと思う。

今年で三歳になるゴースト君だが、全長は1mとちょっとくらいだ。
一般に出回っている情報によると、最大で1.2〜1.5mになるらしいが、現状を見ると市販の最大サイズのプラケースならば十二分に終生飼育できそうに思える。

そうそう、良い点がまだあった。品種の豊富さだ。
今なおペットスネーク界ナンバーワンの座をほしいままにするコーンスネークには、数え切れないほどのカラーバリエーションがある。
まず野生種のノーマルからして、鮮やかな紅色のパターンである。
その派生として紫や黄色、ピンクにオレンジ、黒っぽいものから、なんと全身真っ白なものまで。

即売イベントなどに赴けば、気に入った個体がきっと見つかることだろう。

人気種ゆえのお手頃価格や、ネットや本など豊富な情報量も嬉しいところだ。

欠点、というかまあ気になる点。
餌がネズミであること。
これまで胃がもたれるほど良いところばかり語ってきたが、それでもなお補いきれないほどに、一般の方々にとっては抵抗のあるところだと思う。
中には魚食や虫食い、ミミズ専食にカタツムリ専食なんてヘビもいるが、いずれにしても受け入れ難いものだし、こういった所謂変態ヘビ達はネズミ食いに比べて飼育難易度が高いのがお決まりだ。

最初こそ抵抗はあるものの、人間慣れるものだ。
第一、 肉食であれ昆虫食であれ草食であれ、命を犠牲にして生きているということに変わりはないのだ。
そしてそれは我々人間にも言える。

ネズミが可哀想だと思うのは人として当然の感情だと思う。
だからこそその感情を、全ての食材となった生き物たちに向けることができれば、考えも変わることだろう。

いや、何の話だったか。
要するに、命に感謝して、必要以上に奪わないということが大切だと思う。
生き物の飼育なんてことが、元より業の深い趣味なのだ。

気になる点をもう一つ。
コーンスネークに限らずナミヘビの仲間全般に言えることだが、パイソンの仲間に比べて排泄の頻度がかなり高い。
パイソン達の場合、数食分を体内でじっくり消化した上で、まとめて出すことが多い。

対してナミヘビ共はというと、健康であれば餌を食うたびに糞をする。
それも、食後から2〜4日くらいの間に何度かに分けて排泄するもんだから始末が悪い。
我が家ではヘビたちの床材にペットシーツを使っているのだが、一歩タイミングを間違えれば、掃除をした直後に目の前でシーツを汚された、なんてことにもなりかねないのだ。

しかし、仮にそうなったとしても決して憎めないほどに、とぼけたような顔と仕草にはなんとも言えない愛嬌がある、と思う。

余談だが、私は最近二匹目のコーンスネークを購入した。
ハッチ(生まれたて)サイズで性別は不明、成長すると全身か純白になるブリザードという品種だ。
無論、私個人も白ヘビは大好きなのだが、この子を飼うことにした背景には、もう一つ理由、というか小さな野望があったりする。

ヘビが苦手という人の中でも、白ヘビならば大丈夫という人は、意外と多かったりする。
私の周りのそういった方々へ向けて、ヘビの素晴らしさを布教するべく、この白ヘビくんにお力添えいただこうという魂胆だ。
立派に育ってほしいところである。

コーンスネーク ブリザード。成長が楽しみだ。

アコーディオンという選択肢

「アコーディオンの良さって何?」と訊かれたら、大概の人はその音色の雰囲気や世界観を称賛することだろう。
それは確かにその通りで、ヨーロッパを中心に各国の民族音楽などに多くとりいれられている。
ときには陽気な酒場音楽であったり、またときにはお洒落なミュゼットであったり、どんな音楽の中にあっても独特の存在感を持って、私達の耳に残る音色である。
勿論、それも大きな魅力の一つだ。
言わずもがな、である。
私がアコーディオンを推したい理由は、ほかにある。

完全楽器、という言葉がある。
これは何かというと、音楽を構成する三要素であるメロディ、リズム、ハーモニー(コード)を、全て一台で弾ける楽器のことだ。
身近なところではピアノやキーボード類、ギターなんかがこれにあたる。
何を隠そうアコーディオンも、その完全楽器なのである。

知らない方もかなり多いと思うが、独奏用アコーディオンの場合、鍵盤の無い方、左手側の部位には、コードボタンというものが並んでいる。
どういうものかと言うと、例えば「C」のボタンを押すと、Cコードの構成音であるド、ミ、ソの三つの音が同時に出るのだ。
ボタン一つで、である。
さらにその隣には、オクターブ低い単音が出るベースボタンというものも並んでいる。
この二つを色々なリズムで組み合わせることで、なんと左手の指の二、三本だけで多様な伴奏を弾くことができるのだ。
考えようによっては、知識ゼロで初めて楽器に触れる人でさえも、和音を弾けてしまうという、反則級の伴奏楽器といえよう。
しかし逆に言えばこのコードボタン、それぞれの音をバラバラに弾くことはできず、アルペジオなどが左手だけではできないのが難点だ。
それでは結局ピアノなどには劣るのかというと、さにあらず。
高級なアコーディオンの中に、フリーベースシステムというものがある。
こちらはボタン一つにつき一音が割り当てられている。
主に複雑な演奏やテンションコードを多用するジャズ系の方々が愛用している。
無論使いこなすには相当な鍛錬が必要になるが、演奏の自由度という点に関しては、楽器の王と名高いピアノにも、決して引けは取らない性能を秘めているのだ。
アコーディオンなら触ったことがあるが、そんなものは無かった、という方もいらっしゃるかもしれない。
それは合奏用アコーディオンと言うもので、一昔前から小学校などではこちらが主流となっているようだ。
コードボタンの機構が無いおかげで軽く、また非常に安価なのだ。

アコーディオンの利点として、外せないものがもう一つある。
上記の圧倒的なスペックを持ちながら、なんと電源不要、持ち運び可能ときた。
あ、二つだった。
つまり端的に言ってしまえば、「いつでも、どこでも、なんでも弾けるスーパー万能楽器」である。
…なんだか、胡散臭い通販番組みたいになってしまったが、嘘ではない。

ここまで聞いて、聡い皆様ならこんな疑問を抱くことと思う。
「え、じゃあなんでそんなに普及してないの?」と。
それに関しては恐らく、最初に述べた音色の雰囲気や世界観に原因があると思われる。
独特すぎるのだ。
現代の流行りの音楽、いわゆるJポップの中には、アコーディオンの音を用いた楽曲も勿論ある。
しかし殆どにおいて、その音色は世界観を演出するための民族楽器という扱いである。
楽器を始める人の大多数を占めるのが、バンドサウンドか、オーケストラや吹奏楽に憧れた人であることと思う。
オーケストラや吹奏楽はといえば、こちらはもう構成すらも殆ど決まってしまっていて、入り込む余地などない。
では肝心のバンドはどうだろう。
主に花形のボーカルとギターを中心にベース、ドラム、たまにキーボード。
ここまではテンプレだ。
各々の音作り次第で、どんなジャンルでも演奏できるだろう。
それでは、ここにアコーディオンを入れてみるとする。
するとどうだ、瞬く間に民族音楽、あるいは歌謡曲だ。
料理で例えるなら、カレー粉か麻辣醤といったところか。
少し混ぜ込むだけで、料理自体を独特のテイストに変えてしまう、強烈なスパイスなのだ。
使いどころが限られるわけである。

普及しない理由はまだある。
特に日本では、そもそも楽器自体扱っている店舗なども少なく、また高価なのだ。
私が今までに巡った楽器店の中で、置いてあった店舗は片手で数えるほど、まともに色んな種類のアコーディオンが販売されていたのは、なんと一軒のみだ。
最近はネットでも様々なメーカーのものを見かけるようになったが、まともに独奏できるものとなると、最低ランクでも6〜7万以上はするという、入門者に優しくない楽器なのだ。
ギターなどは、音や品質はともかくとして、1万もしないで同じ形の楽器が手に入るのだから、その敷居の高低差は決定的である。
その反面、一度買ってしまえば、弦やピック、ケーブルなどの消耗品もないし、手入れといえば埃取りか、年単位に一度の調律くらいのもので、ランニングコストはそう掛からないのだが。

私達の耳に馴染み深く、しかし決して容易には手に入らない、近くて遠い楽器。
それが、アコーディオンなのだ。
哀愁漂う前時代の民族楽器としてではなく、なんでもできて音色もいい万能楽器として、あなたも一台いかがでしょう?

植木の剪定、ザックリと

庭木の剪定というと、どこをどうしたらいいのか分からないという方も多いことと思う。
しかし相手は自然、一からキチンと勉強するには、覚えることが余りにも多すぎる。
そこで今回は、曲がりなりにもプロの植木屋として、庭木の剪定のポイントを大雑把に、ザックリとまとめてみたい。

小さく、密に、形良くが基本

根本的に庭園というのは、山や川などの自然風景を、コンパクトにまとめたものである場合が多い。
なので、大きさはある程度で抑えておかなければならない。
しかし単に小さく切っただけでは、枝が少なく何とも貧相な樹形になってしまう。
丁度いい大きさのところで、毎年刈り込みや芽摘みを継続して行うことで、小さいままでも密で充実した枝となる。
そしてそれが、格好いい樹形の条件であると言えよう。

最低でも年一回

樹木は一年で結構伸びる。
折角綺麗に手入れをしても、丸二年も空ければ原型も留めない程に伸び切ってしまうことだろう。
アカマツなど、一度形が崩れてしまうと取り返しのつかないような樹種もある。
枝ゴミも一年分と二年分とでは、その差は単純に倍ではない。
その上、同じ場所で切るにしても、二年たった太い枝では切り口も大きく、樹木へのダメージもそれなりに強烈だ。
多少手間が増えても、年一回以上は手を付けるべきなのだ。

落葉樹は冬、常緑樹は春先。真夏は絶対にNG!

落葉樹にとって、冬場は休眠期間である。落葉樹を剪定するならば、この時期をおいて他には無い。
ただしいくら葉っぱが無いと言っても、芽の位置には気をつける必要がある。
来春からの樹形に直接関わってくるからだ。

常緑樹はというと、新芽が伸び始める頃、3月半ばから4月にかけてが適期。
冬の寒さを越えた後で、尚かつ夏の暑さに備えさせることができる、お誂え向きの期間である。

とはいえ実際、少し形を整えるくらいならば、基本的にはいつでも大丈夫だ。
しかし大きく切り詰める場合や、枝葉を沢山落とす場合は、上記の時期を逃さないようにしたい。
理屈は省かせて頂くが、基本的に樹木は枝を切られると、それを補おうと新芽を伸ばす性質がある。
しかし新芽というのは、柔らかくて非常に脆いため、しっかりと固まる前に夏の日差しや冬の霜に当たってしまうと、簡単に枯れてしまうのだ。
生育期以外の時期に新芽を伸ばすことは、植物にとって多大なエネルギーを消費する行為だ。
それさえも枯れてしまえば、ダメージは計り知れない。

逆に、どんな樹木であろうと、剪定の時期として絶対に避けたほうがいいのが、夏前および真夏だ。
樹木が弱ってしまう大きな原因となるのが、幹や枝の日焼けである。
葉には、幹を日差しから守る役割もあるため、この時期にはなるべく減らさないほうがいいのだ。

まとめ

庭木の剪定の大原則のようなものをを、大雑把に、本当にザックリとだが、まとめさせていただいた。
植木は生き物である故、その手入れに必要以上に臆病になってしまう方は意外にも多い。
しかし例え多少切り間違えたところで、彼らは痛くも痒くもないと言わんばかりに枝葉を伸ばし続けることだろう。
私も植木屋一年生の頃は、それはそれは酷い剪定をしたものだが、それが直接の原因となって枯らしたことは、思いつく限りでは一件もない。


技術面なども含め、愛する樹木たちとともに成長してゆきたいものだ。

蛇は可愛い

閲覧注意、などと書きたくはないのだ、本当は。こんなにも愛らしく美しい生物が、どうしてそこらのグロ画像なんかと同じ扱いなのか、遺憾の意を表する。

人々がヘビを嫌う理由は、おおよそいくつかのパターンに分けられる、と私は分析する。一番多いのが、未知のものを怖がる恐怖心からくるものだろう。幽霊や宇宙人なんかが恐ろしいのと同じ理由である。何を考えているのか、どんな挙動をするのか、分からないというのは、それだけで恐怖足り得る。

田舎のほうの農家の方ならともかく、人工建造物の立ち並ぶ街中の人々にとって、ヘビは身近な存在とは言い難い。我々のようにはっきりとした目や口を持ちながら、手も足もなくヒョロリと長いその姿は、異形そのものだ。知らない人が恐怖するのも頷ける。

二つ目の理由は、先入観によるものだ。皆様はヘビと聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろうか?毒がある、噛み付く、巻き付く、嫉妬深い、いい方と言えば白蛇は縁起が良いだとか、そんなところだろうか。

日本において、そのヘビのイメージを決定づけているのは、マムシおよびハブの存在が大きいと思う。人知れずひっそりと生きている無害なヘビたちと比べて、注意喚起の看板やテレビ番組などで目につく機会があまりにも多いのだ。その結果、ヘビとは毒を持ち危険なものであると、刷り込まれてしまっているのである。

実際のところ、本土で言えば、生息しているヘビは全7種、うち毒ヘビはマムシとヤマカガシの2種のみ。しかもヤマカガシに至っては、その攻撃性の低さ故にごく最近まで無毒だとされていた程の無害っぷりである。風評被害もいいところだ。もちろん、一般的に出回っているペットスネークはそのほとんどが無毒、一部の種類のみが極めて弱い毒を持つ程度だ。

3つ目の理由としては、俗に言う「生理的にムリ」というやつだ。これはもう仕方がない。誰にでも嫌いなものはあるものだ。

しかし、よく分からないからだとか、悪いイメージを信じ込んで拒絶してしまうのは、あまりにもったいないことだと思う。まずは先入観を抜きにして、彼らを見つめてみてほしい。きっとその魅力に気づいていただけることだろう。