ミックスボイスを出せるようになってからの話

いわゆるミックスボイスが出せるようになったからといって、そこで終わりではない。むしろ、そこからが始まりと言ってもいい。

大事なのは、安定感である。同じ曲、同じセットリストのはずなのに、日によって喉が持たないこともあると思う。多くの場合、それはミックスボイスの感覚を完全にものにできていないからだ、と思う。勿論、喉の調子が原因であることもあるだろうが、よほどカラオケなどで叫びまくった直後か、あるいは寝起きでもない限り、直接の原因にはならないものだと思う。少なくとも私はそうだ。

他の楽器と違い、自分の喉は目で見えない。そのため、良い声の出し方を思い出そうにも、どうしても感覚的なものになってしまう。厄介なのは、半端に感覚を掴んでしまうと、多少力ずくでも何となく高音が出せてしまうことだ。余計な所に力を入れていると、一聴うまく歌えているようでも、すぐに声帯が疲れて裏返ってしまう。そんなことが何度もあった。

そうならないために大事なことは、上手く歌えているときの感覚を、できる限り具体的に分かりやすく言語化することだ。

カラオケなり車の中でしょっちゅう歌っていると、やけに調子のいいときがある。そのまま何時間でも歌い続けていられるような気分になる。そういうときの喉の使い方、息の出し方、力の入れ具合、あるいは誰々のモノマネをする感じで等々、なるべく詳細に言葉にして覚えておく。手帳やスマホのメモに書いておいてもいい。

その言葉を意識することで、感覚だけに頼りきることなく、絶好調の状態を再現できるはずだ。

因みに、私なりに言語化した備忘録がこちらの記事↓

たった一度でも、自分の理想の歌い方ができたことがあるなら、後はそれを再現し続けることが一番の課題である。

答えはもう、自分の中にあるのだ。

歌の練習方法_ミックスボイスなど

ポップス・ロック・カラオケなどの歌に関して言えば、それは”練習”というよりもむしろ”研究”と呼んだほうが正しいように思う。大事なのは、筋力そのものよりも、口や喉の筋肉をどのように使い、息をどのように制御するかを知り、あるいは気づき、それを再現することである。

短距離走で例えるならば、ただ闇雲に走りまくるよりも、正しいフォームを覚えて身体に染付かせること。走ることにより筋力は付くかもしれないが、滅茶苦茶な走り方ではスピードも持久力も出るはずがない。

そのフォームが曖昧なままで歌っていると、どこの筋肉に力を入れれば良いかが分からないため、ブレイク(裏返り)を恐れたおっかなびっくりな歌い方になってしまう。自信の無さが歌に出てしまうのだ。これでは当然上手くは聴こえないし、自分でも歌っていて気持ち良くない。

ではどうすればいいか。

そう、”研究”だ。
喉の力を入れる場所、その強度、呼気の出し方、口の開け方、子音の出し方から表情まで、様々なパターンを試してみること。これに尽きる。ネットで勉強した方法などはとりあえず心の隅に押し退けておいて、先入観を捨て自分自身で試行錯誤することが何よりも大事なことであると、私はそう思う。これは経験則だ。

例えば、よく耳にするミックスボイスの情報として、最初のうちは喉を傷めないように裏声からのアプローチを練習するのが良い、というのがある。数々のブログや動画、果ては知り合いのボーカリストにまで散々進められた方法であるが、私にとってはこの情報こそが何よりの障害であり、私を数年間悩ませ苦しめる呪いとなったのだ。喉を痛める覚悟をしてでも、地声からのアプローチを試してみるべきであったと、未だに後悔すらある。

それに今だからこそ言えることだが、素人が一日に数時間程度、多少無理して歌ったところで、喉というのはそうそう壊れるものではないのだろう。これもまた経験則で、私は普段から一人カラオケによくいくのだが、長いときで6〜7時間ほど歌い続け、締めには決まってマキシマムザホルモンやリンキン・パークのデスボイス曲を入れる。当然ながらその日は、声枯れと多少の喉の痛みが出るわけだが、それも二日後には概ね回復してしまうのである。まさに人体の神秘だ。

まあ私も今後どうなるかは分からないし、個人差もあるはずなので、自己責任にて、と申し上げておく。

何度でも言おう。

自分自身で試行錯誤することだ。「間違っているかも」と思うことでも、やってみれば何かしら得られるものがあるかもしれない。ネットの情報にばかり目を取られないように。

いや、この記事もネットの情報ではあるのだが…

世界一テキトーなミックスボイスの説明

この記事は前回に引き続き、俗にハードミックスボイス、地声寄りのミックスボイス、ベルティングボイスなどと呼ばれる、中〜高音域の発声について著すものである。

前回↓

ミックスボイスの迷宮

声の出し方というのは、極めて感覚的なことである。ならばとことんまで感覚的な説明を、ただひたすらに並べていこう、というのが今回の内容。この発声の理論的で合理的な説明は、ちゃんとしたプロの先生方の記事を参照していただきたい。

  • 声帯で大きな声を出すのではなく、声帯で出した小さな音を鼻腔共鳴で大きくする。
  • 鼻の奥に声を通す感覚。鼻の奥に空気の塊があるような感覚で、そこに向けて声を出す。
  • ただし基本、鼻から息は漏らさない。
  • なんなら、声を飲み込むぐらいの気持ちで。
  • 裏声を意識しすぎない。
  • 練習で、ブレイク(裏返り)を恐れない。何故、どうしたら裏返ってしまうかを研究すべし。
  • コツを掴むまでは音域の高すぎる曲は避ける。超高音域の発声は、また別の技術も必要。
  • 裏声への切り替えを意識し始めるのは、超高音域に差し掛かる辺り。
  • どの母音のときでも、喉の奥は常に「え」の形を意識する。これが一番大事かも。
  • 舌の根元を前に出して、舌自体を下に押し付ける(ダジャレではない)。
  • 喉の奥の方で母音を作り、できる限り口先の方で子音を作る。やや舌足らずな感じになる。
  • 広角を上げる。口の中の空間が横に広がる。
  • 要するに、喉の奥やら口の中の空間を目一杯拡げて、舌は息の通り道を邪魔しないように使って、鼻の奥で歌えばいい

テキトー極まりない説明ではあるが、理詰めで考えるよりも存外こちらのほうがわかりやすかったりするものだ。ある程度基本ができてきている方なら、ともすればこの中のどれかにピンとくるものがあるかもしれない。健闘を祈る。

最早、未熟な私自身のための覚え書きと成り果てたこの記事であるが、それだけに身近で現実的な内容になっていると思う。道半ば、迷える同志たちに活用していただきたい。

R3.8.27改訂

ミックスボイスの迷宮

表声と裏声を混ぜる、と最初に表現した先人の罪は重い。おかげでこちらは約5年間もの月日を無駄に費やしたのだから。

この記事は、俗にハードミックスボイス、地声寄りのミックスボイス、ベルティングボイスなどと呼ばれる、中〜高音域の発声について著すものである。

いくら練習しても裏声っぽさが抜けない、地声感が出ないという方々に告ぐ。裏声のことは一旦忘れましょう。

はっきり言おう。この発声を習得するにあたって、地声と裏声を混ぜるという考え方は、邪魔でしかない。裏声の練習は、最低限で良いと思う。どこまで音域を下げても、どれだけ響きを豊かにしても、裏声は裏声。ある日突然地声っぽくなったりはしないのだ。

ミックスボイスを出しているとき、感覚的には地声を出している感覚なのか、裏声を出している感覚なのか、というのはよくある質問である。この発声においては断然、地声の感覚だ。つまりこの発声は、地声の延長なのである。

したがって、練習するなら裏声の混ぜ方ではなく、裏返らない地声の出し方というアプローチが正しい。ここからはもう感覚の話になってしまうので、各々で試行錯誤してみてほしい。強いて言うなら、地声を出しながら、裏声の響かせ方に持っていく、といったところか。声帯の閉鎖はしっかりと、息の強さは強すぎない程度に強め、鼻の奥に声を送る感じ。まあこの辺の細かいところは、少し検索すれば、ちゃんとした講師の皆様方の動画が沢山出てくるので、そちらを参照していただきたい。

かく言う私は、そういった動画などのちゃんとしたボイストレーニング的なものは、一切やったことがない。一から全て独学で、歌いながら練習してきた。そのせいで間違いに気づくのが遅くなったのだろうが、ともかく、独学でも私程度になら歌えるようになるのだ。私の実力はまあ、折を見てツイッターにでもカラオケ動画を上げさせていただく。一般的なカラオケ店で使われている音源にも著作権があり、基本的に個人でアップロードしてはならないとは知らなかった。ミュージシャン(を自称する者)として、恥ずかしい限りである。

というわけで、拙いながらギターの弾き語りの動画をば。
実感として、超絶上手いプロシンガーよりも、自分に実力が近い″ちょい上手″程度の人の歌の方が、より現実的でヒントになるように思う。
歌の通り未熟ではあるが、独学でもこの程度までは歌えるようになる、ということを言いたい。
ギターの腕に関しては、まあ、目を瞑っていただきたい。

まとめとしてはこうだ。

  • 『地声と裏声を混ぜる』は忘れよう。
  • 感覚は、地声を出している感覚。
  • 裏返らない地声の出し方を追究しよう。

どれだけ練習しても成長の実感が湧かないというのは、本当に辛いことだ。理想の歌声を求めて、こんな場末のブログに辿り着いた貴方の道しるべとなれたなら、幸いである。

創作活動、最初にして最大の敵

創作活動−小説や絵画、漫画、作詞作曲などの、特に初心者における最大の障害とは何だろうか?

知識や技術?否。今日、ネットで検索するだけで初心者向けの情報くらいならすぐに手に入る。
また技術なんかは、続けていく内に身につくものだ。
才能?これも否だ。少なくともある程度までは、勉強と練習でそれなりのものが作れるようになるはずだ。才能の有無で悩むのはその先の話だと思う。

私が思うに、敵は「羞恥心」である。
物語にしても歌詞にしても、自分で作り出したそれは紛れもなく自分の内面や願望、さらに言ってしまえば性癖なんかを多分に反映したものになるはずだ。
それを改めて文字に起こしたり形にすることで客観視できるようになるわけだから、恥ずかしく感じるのもまあ当然といえば当然なのだが。
もちろん個人差はあって、よく言えば自信がある人、悪く言えば自分に酔ってるタイプの人には縁のない悩みである。

しかしこの問題、気にする人にとっては思いもよらない難題となる。
私が作曲を始めたばかりの頃の話。
当時ハマっていたNIGHTMAREやポルノグラフィティ、悔しくも逝去されたボカロPのwowaka氏らの歌ものの曲に憧れて、拙いながらも数曲のデモを作った。
しかしまあ一向に作詞が進まない。
もちろん技術や経験不足もあった。それは間違いない。
しかしそれ以上に足を引っ張ったのが、「歌詞を書くなんて、カッコつけたイタい人みたいだ」という偏見だった。
自分の言葉を紡ぐという作業が、なにかとても恥ずかしいことのように思えてしまった。
今考えれば随分と失礼な話だ。世の中には作詞している人なんて五万といるというのに。
それでも尚、じっくり時間をかけて四苦八苦しながら歌詞をつけていくと、一曲分仕上がる毎に少しずつ“作詞家”としての自信がついてきて恥ずかしさは感じなくなっていった。

この「羞恥心」の攻略方法はというと、まあ単純なものだ。
即ち、「自分の憧れの人や、どんなに素晴らしいものを作る人でも、最初は今の自分と同じ状況だった」という意識を持つこと。これに尽きる。

なんだそんなことか、ありふれた言葉だとガッカリしたことと思う。
しかし今一度よく考えてみてほしい。
共感する人が多いからこそ、ありふれた言葉になるわけだ。
私の憧れたNIGHTMAREのRUKAさんやポルノグラフィティの新藤晴一氏も、作詞を始めたばかりの若かりし頃は同じ壁にぶつかっていたのかもしれないのだ。

誰でも最初は初心者。継続は力なり。諦めたらそこで試合終了ですよ。
圧倒的な多数派に裏打ちされた言葉たちを、今一度素直に受け止め信じることが、クリエイターへの第一歩となるのだと私は思う。

アコーディオンという選択肢

「アコーディオンの良さって何?」と訊かれたら、大概の人はその音色の雰囲気や世界観を称賛することだろう。
それは確かにその通りで、ヨーロッパを中心に各国の民族音楽などに多くとりいれられている。
ときには陽気な酒場音楽であったり、またときにはお洒落なミュゼットであったり、どんな音楽の中にあっても独特の存在感を持って、私達の耳に残る音色である。
勿論、それも大きな魅力の一つだ。
言わずもがな、である。
私がアコーディオンを推したい理由は、ほかにある。

完全楽器、という言葉がある。
これは何かというと、音楽を構成する三要素であるメロディ、リズム、ハーモニー(コード)を、全て一台で弾ける楽器のことだ。
身近なところではピアノやキーボード類、ギターなんかがこれにあたる。
何を隠そうアコーディオンも、その完全楽器なのである。

知らない方もかなり多いと思うが、独奏用アコーディオンの場合、鍵盤の無い方、左手側の部位には、コードボタンというものが並んでいる。
どういうものかと言うと、例えば「C」のボタンを押すと、Cコードの構成音であるド、ミ、ソの三つの音が同時に出るのだ。
ボタン一つで、である。
さらにその隣には、オクターブ低い単音が出るベースボタンというものも並んでいる。
この二つを色々なリズムで組み合わせることで、なんと左手の指の二、三本だけで多様な伴奏を弾くことができるのだ。
考えようによっては、知識ゼロで初めて楽器に触れる人でさえも、和音を弾けてしまうという、反則級の伴奏楽器といえよう。
しかし逆に言えばこのコードボタン、それぞれの音をバラバラに弾くことはできず、アルペジオなどが左手だけではできないのが難点だ。
それでは結局ピアノなどには劣るのかというと、さにあらず。
高級なアコーディオンの中に、フリーベースシステムというものがある。
こちらはボタン一つにつき一音が割り当てられている。
主に複雑な演奏やテンションコードを多用するジャズ系の方々が愛用している。
無論使いこなすには相当な鍛錬が必要になるが、演奏の自由度という点に関しては、楽器の王と名高いピアノにも、決して引けは取らない性能を秘めているのだ。
アコーディオンなら触ったことがあるが、そんなものは無かった、という方もいらっしゃるかもしれない。
それは合奏用アコーディオンと言うもので、一昔前から小学校などではこちらが主流となっているようだ。
コードボタンの機構が無いおかげで軽く、また非常に安価なのだ。

アコーディオンの利点として、外せないものがもう一つある。
上記の圧倒的なスペックを持ちながら、なんと電源不要、持ち運び可能ときた。
あ、二つだった。
つまり端的に言ってしまえば、「いつでも、どこでも、なんでも弾けるスーパー万能楽器」である。
…なんだか、胡散臭い通販番組みたいになってしまったが、嘘ではない。

ここまで聞いて、聡い皆様ならこんな疑問を抱くことと思う。
「え、じゃあなんでそんなに普及してないの?」と。
それに関しては恐らく、最初に述べた音色の雰囲気や世界観に原因があると思われる。
独特すぎるのだ。
現代の流行りの音楽、いわゆるJポップの中には、アコーディオンの音を用いた楽曲も勿論ある。
しかし殆どにおいて、その音色は世界観を演出するための民族楽器という扱いである。
楽器を始める人の大多数を占めるのが、バンドサウンドか、オーケストラや吹奏楽に憧れた人であることと思う。
オーケストラや吹奏楽はといえば、こちらはもう構成すらも殆ど決まってしまっていて、入り込む余地などない。
では肝心のバンドはどうだろう。
主に花形のボーカルとギターを中心にベース、ドラム、たまにキーボード。
ここまではテンプレだ。
各々の音作り次第で、どんなジャンルでも演奏できるだろう。
それでは、ここにアコーディオンを入れてみるとする。
するとどうだ、瞬く間に民族音楽、あるいは歌謡曲だ。
料理で例えるなら、カレー粉か麻辣醤といったところか。
少し混ぜ込むだけで、料理自体を独特のテイストに変えてしまう、強烈なスパイスなのだ。
使いどころが限られるわけである。

普及しない理由はまだある。
特に日本では、そもそも楽器自体扱っている店舗なども少なく、また高価なのだ。
私が今までに巡った楽器店の中で、置いてあった店舗は片手で数えるほど、まともに色んな種類のアコーディオンが販売されていたのは、なんと一軒のみだ。
最近はネットでも様々なメーカーのものを見かけるようになったが、まともに独奏できるものとなると、最低ランクでも6〜7万以上はするという、入門者に優しくない楽器なのだ。
ギターなどは、音や品質はともかくとして、1万もしないで同じ形の楽器が手に入るのだから、その敷居の高低差は決定的である。
その反面、一度買ってしまえば、弦やピック、ケーブルなどの消耗品もないし、手入れといえば埃取りか、年単位に一度の調律くらいのもので、ランニングコストはそう掛からないのだが。

私達の耳に馴染み深く、しかし決して容易には手に入らない、近くて遠い楽器。
それが、アコーディオンなのだ。
哀愁漂う前時代の民族楽器としてではなく、なんでもできて音色もいい万能楽器として、あなたも一台いかがでしょう?